Global Healthの世界で働く経営コンサルタント

Global Healthの世界で活躍する

ペースをつかむのには数週間かかるという話。

ここ数日間、体調がよく生産性が高く、また精神的にも安定して生活が出来ていると感じている。アメリカ留学を開始してから数か月は精神的にも体調的もアップダウンが激しかったので、何が影響していたのかを時系列に沿って振り返りたいと思う。

 

1.渡米前(7月初旬~7月末)

7月に会社をやめてから、国内での引っ越しや、国内旅行に行っており、結局最後までバタバタとしていた。この時期は睡眠時間も短く、旅行中も不規則な生活をしていた気がする。

特に渡米直前は荷物の準備やら奨学金協会への報告やらでてんやわんやしており、渡米前日は3時間も寝ていなかった。

 

2.渡米後(8月初旬~8月末)

到着後10日間は時差ボケ、その後も生活に慣れるまで3週間近くは疲れ切っていたようだ。4週目にやっと元気になって前向きな言葉が日記にも出てきている。

その矢先、友人の末期がんという連絡でどん底につき落とされ、すぐに日本帰国のための準備を始めた。

 

3.急遽帰国(9月初旬~9月末)

帰国後の成田空港でのPCR検査、そして自宅までの長距離ドライブ。14日間の自己隔離に加えて、夜中の授業。。疲れ切っていました。。

友人に会ってすぐに帰国。この3週間は疲れすぎて本当にしんどかった。

 

4.2度目の渡米(9月末~10月末)

帰国後すぐに中間試験がありしんどかった。。2週間近くは時差ボケやら睡眠不足やらに悩まされる。。この時期は週末の昼間は寝たきりという日々。少し元気になったらすぐに期末テストラッシュで10月末までぐったり。

 

5.渡米後落ち着いてきた(11月初旬~)

やっと落ち着いてきた。。。嬉しい。。毎日元気に過ごせています。

朝7時に起きて、Meditationして、ヨーグルト・果物を食べ、紅茶を飲んで、ごみを捨ててから学校まで歩く。大学では7時/8時まで勉強し、ジムに行ってから帰宅。11時にはベッドにいるというサイクル。これをキープできれば、かなり生産性が高くなると分かってる。中間テストやら提出物やらに追われないために、とにかく早めに終わらせることを意識してやっていこう。あと、さすがに卒業までは日本に帰国しなければいけないような出来事(冠婚葬祭)がないことを祈るのみです。

 

書き始めるまでは、体調不良(風邪)や季節の変化(秋になり気温低下)が大きな原因かと思っていたのだが、、、振り返ると、長時間の移動・時差ボケ・環境の変化・プライベートの大ごとの影響がとても大きかったのだと気づかされた。プライベートに関しては妻の妊娠もあり、とにかく無事に産まれてくれることを祈るのみです。あとは親兄弟友人に悲しいことが起きないように祈ってます。

そして、改めて、素晴らしい仕事とかって、健全な精神を持ってないと厳しいなとも思ったので、できるだけ毎日のルーティーンを守って、生産性高い日々を送りたいと思う。プライベートでの大ごとは天変地異みたいなもので、自分ではその時期や大きさをマネージできないので、起こるものは起こるとして、そのダメージを最低限にするように、生活の質を高めることが大事ですね。

急遽、日本に一時帰国していた話。

前回のポストで、やっとアメリカ生活に慣れたとか書いていましたが。。。

 

daisgreatadventure.hatenablog.com

 

その後、急遽日本に帰国しておりました。アメリカからの日本帰国がまためんどくさくて、PCR検査やらアプリをいくつも導入したりと、日本入国がまず大変で。。それに加え、日本到着後も、成田空港から自宅までの移動で公共交通機関が使えないので、レンタカーで成田空港から自宅に帰りました。家に到着後も、毎日複数回の在宅確認電話への対応を求められたりと、非常にめんどくさかったです。加えて、アメリカの大学院の授業が基本的には夜中で、生活スタイルもボロボロになり大変でした。。

 

そこまでして帰国した理由ですが、友人の病気です。
大学時代の親友が末期がんになり、一度会えたら嬉しい、と連絡をもらったので。これは、何をおいても行かなければならんなと思いました。お金や時間はかかるけれども、ここで彼に会いに行くチャンスを失ってしまったら一生自分を嫌いになってしまうと思い、連絡をもらってすぐに日本への一時帰国を決めました。

 

自己隔離2週間の後、彼の住む関西地方に大学時代の友人4人と向かいました。大学を卒業して10年。気が付けば皆結婚し家庭を築き、同級生だけでの旅行に行くなんて、こんなことでもなければ子供たちが大きくなるまで難しかったかもしれません。人生なんて皮肉なものだと思いながら楽しんできました。彼の住む地方では、週末二日間に渡り、車の運転をしてもらい、彼の行ってみたかった高級なレストランを食べ歩き、最後は高級な旅館で夜中まで馬鹿話をするという、彼の病気の事さえなければ本当にただただ楽しい、”大人の修学旅行”をしてきました。別れ間際には泣いてしまいましたが、二日間笑って泣いて、ひたすら時間が過ぎることが寂しかったのを覚えています。

 

旅行の翌々日にはアメリカに帰国し、こちらでまた忙しい生活を送っている中で、ふと先日の旅行の写真の整理を始めました。「楽しかったな~」などと、馬鹿面で写真を見ながら思い出を振り返っていて、ふと気がつきました。写真の中の彼の目が笑っていないことに。”笑っていない”、というと少し正確ではないのですが、悟ったような顔をしていて、大学時代の彼の笑顔とは全く異なっていたのです。大学時代の彼の写真と比較するまでそのことに気が付かず、余命は限られていても元気に暮らしているのか、などと思った自分を恥じました。

 

ここからは、僕の妄想です。彼が癌の宣告を受けてからすでに1年近く経過しており、その中で、何度も自分の人生が終わりに近づいていることに耐えられず悲しみに沈んだり、自分とは違い健康に生きている人を羨んだり、時には誰かを憎んだりしたのかもしれません。彼は、その間、ほぼ一貫して我々には連絡をしませんでした。意を決して今回連絡をくれた時には、「絶対に他の同級生には病気のことは言わないで欲しい。もしなにかあっても伝えないでくれ」と何度も言われました。今考えると、彼はすでに自分の死期を大まかに悟り、ある種の受け入れと共に、それでも最後に我々には会いたいと言ってくれたのだという事が分かります。そして、一緒にいる間は、少なくとも大学時代のように、健康な状態を保っているように普通に接して、我々の思い出の中では大学時代の彼のままでいたかったのかなと思います。自分が同じような状況になったら、Facebookで大々的に発表し人の同情や関心を一心に受けるような気もしたので、彼の潔さと美学に、改めて、彼らしいと感じました。

僕の大学院卒業後に彼にもう一度会えるのか、正直それは判りません。彼の人生が残りどれだけあるのかは誰にもわからないのです。僕としては、次回帰国時にまた彼と会えるようにただ神に祈るばかりです。もし体調が悪くなっていても僕たちと会ってほしいなと思うけれども、彼が会いたくなかったら、その意思を尊重するしかありません。アメリカにいても、また手紙でもメールでも、連絡をしようと思った次第です。

 

30代の友人の末期がんという、未だに受け入れられない状況ですが、Population Healthである公衆衛生を学ぶ身としては、確率的には誰もに起こりうることであり、それが自分であったとしても彼であったとしても、そこに何かがあるわけではないのだなと思います。自分だって交通事故にあう可能性もあるし、僕たちが当たり前に生きていると思っている”数年後”なんて、極めて不確かなものなんだと改めて身に染みたと同時に、悔いなく生きるしかないなと。先人たちが言い続けている凡庸な言葉に落ちつきました。

米国のMPH留学再開しました。

2020年は、新型コロナウイルスの影響により、現地での授業が受けられなくなり、関連する実務経験を積むために日本で働いておりました。

 

2021年になり、米国でのワクチン接種が進み、対面授業が再開されることとなったので、夏から米国で授業を受けています。未だに授業はオンラインですが、それでもアメリカに来ることができて、同級生の顔を見ることができるという事には喜びを感じています。

 

アメリカというと日本でもよくニュースで見るので、移り住むのもそんなに大変ではないのかなと思っていたのですが、裏切られました。というか自分はいつもヨミが甘い。

留学生専用のアパートは家の周りがあまりに殺伐としており楽しくなさそうだったので、あえて街の中心部の近くのマンションを他の留学生と協力して借りたのですが、本当に色々大変です。インターネット回線引くのに1カ月かかったり、ごみがちゃんと収集されなかったり、シャワーが出なかったり、木曜・金曜・土曜の夜は爆音で寝れなかったり、この前は家の真下で銃撃事件が起きたり。。

 

気が付かなかったけど、1カ月で4㎏も痩せていました。。この経験から、自分の調子のバロメーターを持つ必要性を感じたので、スマートウォッチ及びスマート体重計を購入することにしました。気が付かないうちに体調が悪くなったり、ストレスを感じていたりすると大きな病気にもつながるので、とにかくできることはしていこうと思った。

某コンサルティング会社とお話をして

開発系の職探しをしている中で某コンサルティング会社の方から連絡を頂きお話をしてきた。

すぐにその会社で働くことは考えていなかったが、会社や声をかけてくれた人に関心を持ったのだ。

1時間程度お話をし、とても有意義な時間だった。なぜなら、自分一人では内省しないようなことを質問してもらえたからだ。具体的には、①5年後・10年後の理想像。②自分の将来をどこに位置付けるのか?官なのか民なのか、はたまた官民なのか。③コンサルティングワークの中での経験や得意分野(企画書作成、調査設計、調査実施、顧客折衝、報告書作成etc)

また、働いていらっしゃる方々のキャリアが、やはり開発ワーカーなので、先日書いたような会社で働いていて親近感も抱いた。

せっかくなので、今更考えてみようか。

①5年後:国際開発のど真ん中で活躍をしている。めちゃくちゃ忙しい日々の中で、南アジアの感染症予防・保健システムの向上をしている。BBCに専門家としてインタビューを受けている。

10年後:国際機関のシニアポジションとして多くの部下と共に、日夜南アジアの保健省とMTGして、プロジェクトを管轄しているだろう。

②自分はグローバルな公的機関で働いている。官民の連携は少し夢物語に聞こえる。

 

声をかけてくれた会社で働くことは今の自分のスキルセットで十分だし、活躍できる自身もあるが、あまりチャレンジングではないのが見え見えなのでやる気がしない。自分はチャレンジングな環境に身を置いて、自身の能力を磨き、切磋琢磨し、その能力を最大限に最も恵まれない生活をしている人々のために使いたいのである。過去のスキルの切り売りでお金をもらうのはまだ早い。大学院卒業後は、取りうる限り最もチャレンジング・リスク(と長期的リターン)を得られる職場を選びたいと思った。

2020年の振り返りも2021年の決意表明もないくらい、しんどい日々でした。

あけましておめでとうございます。

2020年は僕が生まれてから初めて、文字通り世界中の人々が、厄災に見舞われた年になったのではないでしょうか。ご多分に漏れず僕も多大な影響を受けました。。

そして世界的な災害とは全く関係がない所で、自身の家族に大変な不幸が起き、悲しい日々を過ごすことになりました。まさか12月・1月と2カ月連続でこんなことがあるとは。。ほんっとうに、人生は何が起こるかわからないもので、昨日まで元気だった人が、結婚式で歌を送ってくれた伯父が、仕事場でいきなり亡くなるなんてことがあるんです。まだ彼がいなくなったことが信じられませんが、今はただご冥福を祈ります。そしてまた、1月1日から、もうすぐ安定期だった妻が流産をするなんて、信じられないことが起こるものです。いまだ悲しみは癒えていませんが、それでも、日々は続いていくし、僕らは死ぬまで生きるしかないんだなあと思いながら日々を過ごしています。

1年前の僕は、妻との新生活が楽しみで仕方なく、友人や親たちと過ごす結婚式の準備に明け暮れていて、来年の1月はお互い別々のところに住んでいてさみしいね、なんて話していたんですが、わからないものです。多分来年の1月もどうなってるかなんて、結局わからないんでしょう。それでも、今の僕は、自分が来年の1月にはアメリカの大学院に通って、アメリカで働き続けるための就職活動を終え、未来に向けて進んでいると信じているし、そのころには新しく家族が増えているかな、なんて思っています。

僕の大好きなQueenの曲にもあるように、Show Must Go Onで、今年も生きていきます。

久しぶりの社会復帰と、国際開発(international development)の世界に入って思ったこと

1.社会復帰1か月くらいか

とにかく、朝起きるのがつらい。決まった場所(職場)に行くのがつらい。

大学院の時は自由な生活だったなあと改めて思う。働くのは1年間の予定で、そのあとはまた大学院に行く予定なので1年の辛抱なんだけど、日本で働くってのが自分にとってここまでストレスが大きいとは思わなかった。卒業後も日本では働かない。

良いところとしては、定期的に職場や通勤経路から刺激を受けることがある。職場ではなんせ新しい仕事なのでわからないことだらけで新鮮だし、通勤経路では今まで使わなかったターミナル駅を使っており本屋やカフェがあり新しい発見があること。

 

2.国際開発の世界に入ってみて

想像していたことではあるが、ビジネスの第一線の仕事と比べるとはっきり言って一流ではないこともたくさんある。特に予算に係るところはレベルが低い。つまりIT機器であったり、システム周り、オフィス周りははっきり言っていけてない。働いている人々はいい人が多いが、組織としては効率性を重視しているようには思えないのが気になるところである。社員の時間に関してもだし、プロジェクトの中でのお金の使い方についてもコスト意識が低いと思わざるを得なかった。これは残念だった。

良いところは、働いている全員が、少なくとも国際開発の仕事に関与しているということだろう。SDGsはもとより、世界の不公平に対して少なからずの関心を持っている人々と毎日働けることはとても良いものであった。(とはいっても、同僚は全然本も読まないし海外の新聞を読む習慣がないのは悲しかった)

 

Global Healthの世界の仕事@日本

世界がこんな状態ですし、大学院もお休みしているので、日本でGlobal Healthの仕事を探していました。僕と同じようにこの業界に新しく入る方のために参考までに名前を残しておきます。

以下、僕が今回応募した組織です。誰かの参考になれば嬉しいです。面接した組織も多いので、何か質問があればコメントください。

 

・Bill & Melinda Gates Foundation(ゲイツ財団)

・Boston Consulting Group(ボストン・コンサルティング・グループ

・Deloitte(デロイトトーマツ

・GHIT Fund(グローバルヘルス技術振興基金

・HGPI(日本医療政策機構)

・JCIE(日本国際交流センター)グローバルヘルス分野

・JICA(国際協力機構

・KOEI(コーエイリサーチ&コンサルティング

・MOF(外務省)国際保健政策室

・MHLW(厚生労働省)大臣官房国際課

・NCGM(国立国際医療研究センター

UNICEF国際連合児童基金

UNFPA国連人口基金