Global Healthの世界で働く経営コンサルタント

Global Healthの世界で活躍する

急遽、日本に一時帰国していた話。

前回のポストで、やっとアメリカ生活に慣れたとか書いていましたが。。。

 

daisgreatadventure.hatenablog.com

 

その後、急遽日本に帰国しておりました。アメリカからの日本帰国がまためんどくさくて、PCR検査やらアプリをいくつも導入したりと、日本入国がまず大変で。。それに加え、日本到着後も、成田空港から自宅までの移動で公共交通機関が使えないので、レンタカーで成田空港から自宅に帰りました。家に到着後も、毎日複数回の在宅確認電話への対応を求められたりと、非常にめんどくさかったです。加えて、アメリカの大学院の授業が基本的には夜中で、生活スタイルもボロボロになり大変でした。。

 

そこまでして帰国した理由ですが、友人の病気です。
大学時代の親友が末期がんになり、一度会えたら嬉しい、と連絡をもらったので。これは、何をおいても行かなければならんなと思いました。お金や時間はかかるけれども、ここで彼に会いに行くチャンスを失ってしまったら一生自分を嫌いになってしまうと思い、連絡をもらってすぐに日本への一時帰国を決めました。

 

自己隔離2週間の後、彼の住む関西地方に大学時代の友人4人と向かいました。大学を卒業して10年。気が付けば皆結婚し家庭を築き、同級生だけでの旅行に行くなんて、こんなことでもなければ子供たちが大きくなるまで難しかったかもしれません。人生なんて皮肉なものだと思いながら楽しんできました。彼の住む地方では、週末二日間に渡り、車の運転をしてもらい、彼の行ってみたかった高級なレストランを食べ歩き、最後は高級な旅館で夜中まで馬鹿話をするという、彼の病気の事さえなければ本当にただただ楽しい、”大人の修学旅行”をしてきました。別れ間際には泣いてしまいましたが、二日間笑って泣いて、ひたすら時間が過ぎることが寂しかったのを覚えています。

 

旅行の翌々日にはアメリカに帰国し、こちらでまた忙しい生活を送っている中で、ふと先日の旅行の写真の整理を始めました。「楽しかったな~」などと、馬鹿面で写真を見ながら思い出を振り返っていて、ふと気がつきました。写真の中の彼の目が笑っていないことに。”笑っていない”、というと少し正確ではないのですが、悟ったような顔をしていて、大学時代の彼の笑顔とは全く異なっていたのです。大学時代の彼の写真と比較するまでそのことに気が付かず、余命は限られていても元気に暮らしているのか、などと思った自分を恥じました。

 

ここからは、僕の妄想です。彼が癌の宣告を受けてからすでに1年近く経過しており、その中で、何度も自分の人生が終わりに近づいていることに耐えられず悲しみに沈んだり、自分とは違い健康に生きている人を羨んだり、時には誰かを憎んだりしたのかもしれません。彼は、その間、ほぼ一貫して我々には連絡をしませんでした。意を決して今回連絡をくれた時には、「絶対に他の同級生には病気のことは言わないで欲しい。もしなにかあっても伝えないでくれ」と何度も言われました。今考えると、彼はすでに自分の死期を大まかに悟り、ある種の受け入れと共に、それでも最後に我々には会いたいと言ってくれたのだという事が分かります。そして、一緒にいる間は、少なくとも大学時代のように、健康な状態を保っているように普通に接して、我々の思い出の中では大学時代の彼のままでいたかったのかなと思います。自分が同じような状況になったら、Facebookで大々的に発表し人の同情や関心を一心に受けるような気もしたので、彼の潔さと美学に、改めて、彼らしいと感じました。

僕の大学院卒業後に彼にもう一度会えるのか、正直それは判りません。彼の人生が残りどれだけあるのかは誰にもわからないのです。僕としては、次回帰国時にまた彼と会えるようにただ神に祈るばかりです。もし体調が悪くなっていても僕たちと会ってほしいなと思うけれども、彼が会いたくなかったら、その意思を尊重するしかありません。アメリカにいても、また手紙でもメールでも、連絡をしようと思った次第です。

 

30代の友人の末期がんという、未だに受け入れられない状況ですが、Population Healthである公衆衛生を学ぶ身としては、確率的には誰もに起こりうることであり、それが自分であったとしても彼であったとしても、そこに何かがあるわけではないのだなと思います。自分だって交通事故にあう可能性もあるし、僕たちが当たり前に生きていると思っている”数年後”なんて、極めて不確かなものなんだと改めて身に染みたと同時に、悔いなく生きるしかないなと。先人たちが言い続けている凡庸な言葉に落ちつきました。