・IMDとは?(後で書く)
・なぜ今行くのか?(後で書く)
・キャンパスビジットでの感想(これも後で)
この数ヶ月結構怒濤の日々をすごしていました。(主に精神的な意味で)
・大好きな親友が市長になりました
分かりやすく自分の夢を叶える一歩を踏み出した彼に心からのお祝いと、少しだけの嫉妬を覚えた。同時に、数年後彼と再開した時に、まだおれたちはソウルメイトだよねって言えるかと、お互いに尊敬の念を持ち続けられるかと、そういうことも考えた。
おれはいつだって彼を尊敬しているし、同時に彼からも尊敬をされるように自分を磨いて生きていく。そういう宣言。
・初恋の女の子と飲んでたら猛烈に日本に帰りたくなった
先月、日本で初恋の女の子と数人の友達と飲んで。金曜日にいけてるレストランで美味しいものを仲間と食べて酒飲んで、週末は趣味に没頭。そんな日々も良いよなあって思った。
全部インドだとほぼ不可能。美味しいレストランもないし、いけてる友達もいないし、もろもろもろ。で、2週間海外出張に行ってたこともあり、身体がぼろぼろで、精神的にも落ち込んでたみたい(というか身体の影響だな)で、すっげー日本に帰りたくなった。猛烈に転職サイト見たり知り合いの人材会社に連絡したり。ま、海外進出周りならなんとか仕事できるし給料もあげられそうだな〜って思ってた。
で、最近やっと疲れが取れて来て、思った。
全然やりきってないじゃんインドでって。コンサルとしてもまだまだひよっこだし、この組織の中で何をやり遂げたんだと?そんなやつが、どの顔して日本に転職するの?自分に恥じることはしたくない。
他人に恥じることは別にしてもいいけど、自分が納得しないことはしない。自分が納得したことをするのだ。
・でMBA行こうと思ってる。欧州のIMD
これは4年くらい前、前職の外資系メーカーにいた時も考えてたけど、あの時より今のほうが、「今しかない」感とか、行く理由がはっきりしている。
自分のキャリアをもっと、グローバルに寄せる。そしてリーダーシップ教育を受ける。
外資系企業の現地採用(日本)も、日系企業の現地採用(インド)も経験して思うのは、どっちも所詮ローカライズされた仕事だということ。
世界的企業の本丸で働いてみたいということ。そして、それをするのにMBAはチケットとしての価値がある。今の仕事をあと10年必死で働いても欧州企業の欧州本社で上り詰めることはほぼ不可能。でもMBAとればそのスタートラインには行ける。
・というか単純にIMDに行きたいというあこがれ
前職の時の先輩に教えてもらったIMD。めちゃくちゃ気になってる。
その後、組織開発のコンサルティング会社で、いやってほど、Be Yourselfであること、リーダーシップ、については考え続けた。その中でも好きなのはAuthenticであること。
今もそう。MBAでありながらそのリーダーシップにフォーカスしていることにとても興味を覚える。
また、僕は”グローバル”な人間って、色んな国に友達がいる人だよなって思ってて。これは何かというと、具体的な話を書く。
仕事でインドネシア行った時に同い年の通訳と仲良くなって、その後もたまにやり取りしている。その後、インドネシアで大きな地震があった時に、凄く彼女が心配になったし、彼女の周りの人も心配になった。
その時ふっと、「これがグローバルな人間ってやつじゃね?」って思ったんだ。だって、世界中でこれだけ悲しいことが起き続けているのに、(この前UKでも痛ましいテロがあった)全然関係ないって思って、というか意識もしないで人は生きていけるんだよ。でも、おれはそれじゃあこの悲惨な世の中は変わらないと思う。
身の回りの範囲が世界になった人が100万人いたら、世界中に友達がいてビジネスでも結果を出せるやつがいっぱいいたら、世界は変わるんじゃないかな?そしてそのためには、そう思うことが出来るだけの余裕や能力がある人、つまりオレがなるしかないんじゃないかな?って思ったんだ。
支離滅裂だけど、そんなことを考えながら日々過ごしている。
あとで、2017年度の仕事/生活についても考えを書く。
いまさらですが、読みました。
インドで、日本人の僕は、コンサルトして、働いています。
クライアントは日本企業かインド企業がほとんどですが、プロジェクトでは、東南アジア/アフリカ/アメリカ/中東まで範囲にしています。
言ったら、日本的なグローバル社会人なわけです。
で、そんな自分は、こんな本に書いてあること、日常生活でわかってんじゃねーの?と思いながら読み始めたのですが。。読み進めていくうちに、何というか、自分を恥じることがいくつも思い出されました。
一番分かりやすいのは、時間に関してだけど、僕もどうしても、時間厳守はグローバルルールなのに、なぜインド人は守れないんだろう?と不思議で不思議でしょうがありませんでした。
また、ハイコンテクスト/ローコンテクストに関する違いも面白い。
ハイコンテクストな社会とは、会話の空気を読む必要がある社会であり、歴史的に同一な人々によって成り立っていることが多い(日本もインドも)
一方、ローコンテクストは社会では、会話はすべて「表現された通りに受け止められる」し、「表現されていないことはないものと同じ」という特徴を持つ。
面白いのは、下記3種の会話では、Bよりも、Cの会話のほうがより、噛み合ないということ。よって、多分化な人々と話す際は互いがローコンテクストな会話(必要充分なことを話す)必要があるということ。インド人/日本人は共に、極めてローコンテクストな文化を持ち、かつ、異なる文化を持っているので、肝に命じたいと思う。
A:ローコンテクスト同士(国は違う)の人々が話す
B:コーコンテクスト文化の人と、ハイコンテクスト文化の人が話す
C:ハイコンテクスト文化同士(国は違う)人々が話す
少し、話は変わるかもしれないが、我々コンサルタントが作る資料というものは、ローコンテクストな文化に最適化された文書の最たるものだとすら感じる。常に先輩からは、いつ(後々プロジェクトを見られることはある)誰が(発注者から何度も何度も転送される)どのように(読み方は文化、個人差が激しい)読んでも、同じように理解されるように書くべきだと、しつこく教えられる。
面白いなあ。
思考が飛ぶが思いついたので自分の幼少時代について。僕は、幼少期をアメリカで、その後小学校からは日本なので、感性としては日本人的であるべきだと思うのだが、いちいち自分はアメリカ的(ローコンテクスト)な所もあるなあと思っていたが、ふとその謎が解けた。僕の兄はアメリカで小学校時代を過ごしており、彼とあまりに長時間一緒にいすぎて、会話しすぎて、説教されすぎたせいで、僕は学校では日本式、家庭(兄)ではアメリカ式の教育を受けていたんだと気づいた。なるほど。だからか日本の学校にはなじめなかったし、社会人になってからも米国の会社やコンサルタントという、極めて西洋的かつローコンテクストな企業体で働いている。
話を本書に戻す。
もう一点、個人的に面白かった(日本とインドの違いと言う観点で)は、
日本人は物事を進める際に極めて合意思考が強く、インド/中国はトップダウン式であるということ。
これは、インド企業と働いた時に嫌という程感じた。あるインド企業の社長と、彼の右腕/左腕と仕事をした際、彼らと私たちが何度合意しても、最終的には社長の鶴の一声で結論が変わった。こっちからしてみれば、社長だけが決めるなら彼の部下に話す必要はないだろうと感じたが、彼らの中では、社長は絶対であり、その前に部下が外部機関の提案を精査するのは当然のようだ。
仕事で相手を信頼する方法に関しても面白い。この本には何度も書かれているが、大事なのは絶対的な意味での尺度ではなく、他の文化と比較したときの相対的な尺度であるということ。
日本もインドも絶対的な意味では、信頼関係を気づくのが関係ベース(個人を知り合うことが重要)であり、タスクベースな文化圏ではない。
しかし、インドから見ると日本は、タスクベースな文化圏に写る。つまり、インド人の同僚からすると我々日本人は仕事でしかつき合わない人々で、中々信頼するのが難しいと写っていることが分かる。
同様に、「見解の相違」への反応として、日本もインドも同様に「対立回避型」だと言われる。しかし、日本が極端に「対立回避型」であるから、我々から見るとインド人は「対立型」にみえる。事実、のべつくまなく議論を交わしている姿を見るたびに、日本人である我々は、またやり合っているなあと思ってしまう。しかし、世界的に見ると、イスラエル/フランスのような国は比べ物にならないほど「対立型」の国である。
これらの面白いトピックを読み終えて僕が今思うのは、日々の生活で学んだことを活かしていくことだと感じる。Amidさんが何かを言った時に、反応的にいらっとするのではなく、互いの文化圏の違いに目を向け、優しくなろうと思う。
久々に文章を書きます。全然考えがまとまらないので、つれづれなるままに。コンサルが雑然と何も考えずに文章を書くなんてとても恥ずかしいと思うほどには、僕もコンサルトしての姿勢が身に付いて来た。
1.いなくなった親友を思う(Lost in Time『旅立ち前夜』を聴きながら)
この4ヶ月以上、同じことばっかり考えている。親友でもあり同居人でもあり同僚でもあったやつがインドを去って2週間が経った。というかまだたった2週間しか経っていないことに驚いた。
大学時代の女友達は、今回の僕の喪失感を例えてこう言った。
「今までの彼女と別れたとき以上のショック受けてるじゃん。今回の友情は、大ちゃん史上最高の恋愛だったんだね」と。
大好きなマンガ「恋愛的瞬間」の2巻の一話目に忘れられない話がある。(※余談だがこのマンガは本と僕の人生5本の指に入る位の名作でしかもたった3冊なんでぜひ読んでほしい)
大学生の男子ハルタの、高校時代の親友との話だ。いやになるほどバカをやった親友って、この文を読んでいるあなたにも誰か1人位は思い当たる人がいると思う。そいつと環境が変わって徐々に疎遠になってく感じとか、久々にあっても昔のバイブスが甦る瞬間とかそうじゃない瞬間とか色々あるんだけど。その話の中で忘れられないセリフがあるので抜粋する。
(吉野朔実『恋愛的瞬間』より)
森依「…恋愛は あらゆる抵抗に打ち勝つ相思相愛の力。友情は 相思相愛でありながら 抵抗によって達成できない疑似恋愛関係」
ハルタ「抵抗?」
森依「同性であるとか 既婚者であるとか 恋人がいるとか 顔は好みだが性格が気に入らない 性格はいいが肉体的には受けつけない等々 逆をいえば抵抗があるにもかかわらず気持ちのベクトルが向き合っている人間関係と言ってもいい」
ハルタ「友情は恋愛の一部ですか?」
森依「そうではないものを私は友情とは呼ばない」
ハルタ「じゃあ抵抗を克服すれば」
森依「恋愛になる可能性は極めて高いと言える」
(以上抜粋終了)
恋愛の終わりは、どちらかがどちらを好きじゃなくなるケースがほとんどだと思う。例えそれが、遠距離恋愛のようにきっかけが距離だとしても結論は「好きじゃなくなった」ってのがほとんどだと思う。それに対して、友情には終わりがないように感じられる。
感じられるだけで、僕は最近友情にも賞味期限というか、最もアクティブな時期というか青春期みたいなものがあると感じている。そしてそれは物理的な距離が大きなファクターである。今回の僕の友情の終わりは、同居人が同じ会社を辞め、物理的にも距離がインドと日本に離れるということで、僕らの青春期は終わったんだと思う。
僕は小さな頃から何度も転勤・転校を繰り返していたので、この感覚を知っているし慣れている。でも今回のは特別つらい。それは異国で暮らす僕にとって彼の存在が、戦友とか親友とかっていう意味で心の支えになっていたからだと思う。誤解を恐れずに言うと、僕にとっては本当に今回の友情は特別なモノだった。今まで彼ほど僕が心を開いた友人はいなかったかもしれない。二人でいた時の、あの気を使わない感じ。バカ話をしたら毎日深夜25時だったあの感じってなんだったんだろうなあ。今思ったら、これくらい対等に親友って思えたのは、他には兄くらいかもしれない。
自分を分析すると、これは僕のリスペクトの問題だと思う。人を見定める際に、相手が自分より劣っている点を見てしまう。それは学力かもしれないし、人生全般への考え方かもしれないし、今までの人生の選択かもしれない(もちろん、こんな考え方は非常に差別的だし勘違い甚だしいと思われることは承知で書いている)
リスペクトができてかつ、一緒にいて気が楽な人間が身近にいなくなることのストレスが大きくて、正直、情緒不安定な日々が続いている。
結果として、毎日泣き明かしているかというと別にそんなことはない。
むしろ、以前よりよっぽど活動的だし、自分の意見も積極的に伝えるようにしている。
実際、上司からも「あいつがいなくなってから、やけに自分を出すようになったよね。いなくなったほうがよかったんじゃね?」
と言われたくらいだ。このセリフは冗談だとしても全然笑えないが、それは置いといても、外から僕が積極的に自分を出すように見えるのは事実だと思う。
自分もそれにはものすごく自覚的である。それはなぜかと言うと理由は2つある。
1つ目は、僕がこの会社/インドにいる時間は限定的だと、より意識するようになったから。(そもそも人生は限定的な時間なんだけどね)
有限の時間(インドに関して言うと残り2年ちょい)を僕はどう過ごすのか?
思ったことを言って過ごすのか、裏でぐちぐち言うのか?
やったほうがいいと思うことをやらずに、「あ〜やっときゃいいのに?」って傍観者を気取るのか?
僕は前者を取る。それが、一時的には自分にネガティブに影響するとしても、僕は自分が正しいと思うことをする。
2つ目は、去った友人によくフィードバックされていたから。彼から「大さんは大体いつも意見があるし、正しいこと思ってるんだったら言えば良いじゃないですか?なんでいつもあんま言わないんですか?」って言われてたから。
正直言うと、僕は、波風を立てるのが好きではない。人がイライラしているのとかも苦手だ。
でも、言わないで後で後悔するのはもっと嫌いだ。
彼のフィードバックを受け入れることは、僕の中に彼が残ることだと思う。
というわけで、親友が去って辛いという気持ちを抱えながら、日々アクティブに過ごしている。
最後に、「別れ」について、二ヶ月くらい前に読んだ、瀬戸内寂聴さんのエッセイにこんな文章があった。今の自分の気持ちをこれ以上ない位ぴたりと表現してくれているので、抜粋してこの文章を終わる。
「自分が数々の出逢いによって得た想い出の豊富さを思いかえす時、出逢いの相手の中に、自分がどういう形でつなぎとめられているかを自然に考えずにはいられない。
(中略)
数々の出逢いに怖れず直面し、出逢いの重さと神秘に勇気を持って当たった人間には、少なくともその相手にだけは自分の生きていたしるしを刻みつけることが出来たといえよう。」
「私の望むと望まないにかかわらず、人を愛した以上は必ず別れは訪れるものだ。人は別れるために出逢うのであり、出逢うために生きるのである。私が生を終わらないかぎり、私はまだこれからも人に出逢うだろう。そして性懲りもなく、別れをくりかえしていくのだろう。」
(別れについて追記:過去の自分のブログより抜粋。今読むと恥ずかしいが感慨深いものがある)
昔好きだった詩にこういうものがある。
「この杯を受けてくれ、どうぞなみなみ注がしてくれ、花に嵐のたとえも在るぞ、さよならだけが人生だ」(井伏鱒二)
アンサーソングとして、こんなものもある。
「さよならだけが人生ならば、またくる春はなんだろう、さよならだけが人生ならば、めぐりあう日は何だろう、さよならだけが人生ならば、人生なんていりません」(寺山修司)
僕の今までのスタンスは前者だった。どうせ人生において人は一人で生まれ一人で死んで行く。そんな中でさよならを前提として、人と付き合い、自分と付き合い、人生とつき合って行けば良いやという厭世観にも似た感情があった。
今、ふと思い出して思うことは、自分の”あり方”の変化によって、今の自分のスタンスは後者になった。
さよならだけが人生じゃない。この春を、この出会いを、この一瞬を、祝う。ただそれだけだ。一瞬の結びつきが永遠の結びつきになることを今の僕は知っている。いま、人が決めたこの時間の中にある生が終わっても、終わらないものがある。
雨が降っている、ここから僕の人生はリスタートだ。人生は終わらない。人生はさよならだけじゃない。人生は出会いに満ちあふれている。人生は愛と力だ。そして人も。
長くなったので他のことは次回以降かく。
2.インターン生のメンターになって
3.将来について
4.女性関係
5.インドのあるスポーツサークルに参加しての雑感
今までの自分に。
そんなことは簡単にはできないと知っている。ただ、人生には何度もそれができるタイミングがあって、大事なのはその波に乗ることだっておれは思う。
年末年始もそうだし、誕生日もそうなんだけど、自分の目の前のことだけじゃなくてちょっと昔のこととちょっと先のことを考えられる時間がある。
運良く僕にもそれがやってきた。
きっかけは親友との別れ。家族以外のヒトで一緒に住んで心地よかったのは初めてだった。
毎日、会社から帰ったらくだらない話を1時過ぎまでして、時には2時3時まで酒飲んでお決まりのYoutube見て爆笑して、週末は一緒にスタバに行って別々の作業をして夜はまた酒飲みながら飯を食う。こんな仲良くなれるとは想像もしてなかったから本当に心地いい時間だった。
いつか別々の道に進むことは知ってたけど、実際にそれが来て、彼が去った。寂しいって気持ちはある。悲しいって気持ちもある。でも、同時にこれは自分にとって新しい旅立ちなんだなってことも分かった。
彼との別れを利用して今までの自分との決別宣言。もしくは、なりたい自分を描く。
・夜更かしよりも朝早く
・深酒よりも深い睡眠を
・身体に気をつけて運動する
・定期的に母親に電話する
・毎週Economist読む
・日曜日は翌週の準備
・自己研鑽の読書を書かさずに。せめて週に一冊は読む
・Googleよりも読書
・毎日、毎週、毎月、四半期、一年、自分の成長を振返る
ネットをふらふらとしていて読んだこのブログから。
で、この一年を振返って「やりました!」と言えることを書いてみた。
・どベンチャー企業で働いた
・やってみたかった組織開発を仕事にした
・親との時間をだいじに過ごした(鎌倉行ったり、お寺行ったり)
・独立してお金を稼いだ
・一人じゃなくてヒトと事業をやるほうがいいなって分かった
・インドに引っ越した
・戦略コンサルタントになった
・英語で仕事をした
・定期的にEconomist読んでる
・親友が増えた(最高のルームメイトでした)
・定期的に部屋をキレイにする習慣がついた
・毎日ヤクルトを飲んでる
・スクワット続けてる
うーん、もっともっとやりたいことあるな。
楽しんで生きていこう。
インドに来て、もうちょいで半年が経ちます。
生活には慣れたし、会社のヒトとも仲良くなった。仕事も前よりは自分で仕切れるところが増えて来たし、成長曲線はいい感じ。
ただ、いーーーーっつも僕は目の前の今年か考えられなくて、当面思ってるのは、ヨーロッパで大学院行きたいなあってこと。人生の目的とかよくわかんない。
まったりした日々よりもヒリヒリした日々を過ごしたいと思いつつ、生きている。
全然満足感とかないんだけど、これで人生進んでいっていいのかな〜という言いようのない不安がある。
目の前の課題をこなしていって、金貯めて、34までに大学院に行く。ぜんぜん楽しいと思うし、後悔もしないと思うんだけど、人生の目的とかってないもんなんだっけ?とたまに思う。