Global Healthの世界で働く経営コンサルタント

Global Healthの世界で活躍する

コンサルがインドに住んで10ヶ月。今おもうこと。

久々に文章を書きます。全然考えがまとまらないので、つれづれなるままに。コンサルが雑然と何も考えずに文章を書くなんてとても恥ずかしいと思うほどには、僕もコンサルトしての姿勢が身に付いて来た。

 

1.いなくなった親友を思う(Lost in Time『旅立ち前夜』を聴きながら)


旅立ち前夜



この4ヶ月以上、同じことばっかり考えている。親友でもあり同居人でもあり同僚でもあったやつがインドを去って2週間が経った。というかまだたった2週間しか経っていないことに驚いた。


大学時代の女友達は、今回の僕の喪失感を例えてこう言った。


「今までの彼女と別れたとき以上のショック受けてるじゃん。今回の友情は、大ちゃん史上最高の恋愛だったんだね」と。


大好きなマンガ「恋愛的瞬間」の2巻の一話目に忘れられない話がある。(※余談だがこのマンガは本と僕の人生5本の指に入る位の名作でしかもたった3冊なんでぜひ読んでほしい)

大学生の男子ハルタの、高校時代の親友との話だ。いやになるほどバカをやった親友って、この文を読んでいるあなたにも誰か1人位は思い当たる人がいると思う。そいつと環境が変わって徐々に疎遠になってく感じとか、久々にあっても昔のバイブスが甦る瞬間とかそうじゃない瞬間とか色々あるんだけど。その話の中で忘れられないセリフがあるので抜粋する。

吉野朔実『恋愛的瞬間』より)

森依「…恋愛は あらゆる抵抗に打ち勝つ相思相愛の力。友情は 相思相愛でありながら 抵抗によって達成できない疑似恋愛関係
ハルタ「抵抗?」
森依「同性であるとか 既婚者であるとか 恋人がいるとか 顔は好みだが性格が気に入らない 性格はいいが肉体的には受けつけない等々 逆をいえば抵抗があるにもかかわらず気持ちのベクトルが向き合っている人間関係と言ってもいい」
ハルタ「友情は恋愛の一部ですか?」
森依「そうではないものを私は友情とは呼ばない」
ハルタ「じゃあ抵抗を克服すれば」
森依「恋愛になる可能性は極めて高いと言える」

(以上抜粋終了)

 


恋愛の終わりは、どちらかがどちらを好きじゃなくなるケースがほとんどだと思う。例えそれが、遠距離恋愛のようにきっかけが距離だとしても結論は「好きじゃなくなった」ってのがほとんどだと思う。それに対して、友情には終わりがないように感じられる。

感じられるだけで、僕は最近友情にも賞味期限というか、最もアクティブな時期というか青春期みたいなものがあると感じている。そしてそれは物理的な距離が大きなファクターである。今回の僕の友情の終わりは、同居人が同じ会社を辞め、物理的にも距離がインドと日本に離れるということで、僕らの青春期は終わったんだと思う。

僕は小さな頃から何度も転勤・転校を繰り返していたので、この感覚を知っているし慣れている。でも今回のは特別つらい。それは異国で暮らす僕にとって彼の存在が、戦友とか親友とかっていう意味で心の支えになっていたからだと思う。誤解を恐れずに言うと、僕にとっては本当に今回の友情は特別なモノだった。今まで彼ほど僕が心を開いた友人はいなかったかもしれない。二人でいた時の、あの気を使わない感じ。バカ話をしたら毎日深夜25時だったあの感じってなんだったんだろうなあ。今思ったら、これくらい対等に親友って思えたのは、他には兄くらいかもしれない。
自分を分析すると、これは僕のリスペクトの問題だと思う。人を見定める際に、相手が自分より劣っている点を見てしまう。それは学力かもしれないし、人生全般への考え方かもしれないし、今までの人生の選択かもしれない(もちろん、こんな考え方は非常に差別的だし勘違い甚だしいと思われることは承知で書いている)
リスペクトができてかつ、一緒にいて気が楽な人間が身近にいなくなることのストレスが大きくて、正直、情緒不安定な日々が続いている。

 


結果として、毎日泣き明かしているかというと別にそんなことはない。
むしろ、以前よりよっぽど活動的だし、自分の意見も積極的に伝えるようにしている。
実際、上司からも「あいつがいなくなってから、やけに自分を出すようになったよね。いなくなったほうがよかったんじゃね?」

と言われたくらいだ。このセリフは冗談だとしても全然笑えないが、それは置いといても、外から僕が積極的に自分を出すように見えるのは事実だと思う。

 

自分もそれにはものすごく自覚的である。それはなぜかと言うと理由は2つある。

1つ目は、僕がこの会社/インドにいる時間は限定的だと、より意識するようになったから。(そもそも人生は限定的な時間なんだけどね)
有限の時間(インドに関して言うと残り2年ちょい)を僕はどう過ごすのか?

思ったことを言って過ごすのか、裏でぐちぐち言うのか?
やったほうがいいと思うことをやらずに、「あ〜やっときゃいいのに?」って傍観者を気取るのか?

僕は前者を取る。それが、一時的には自分にネガティブに影響するとしても、僕は自分が正しいと思うことをする。

 

2つ目は、去った友人によくフィードバックされていたから。彼から「大さんは大体いつも意見があるし、正しいこと思ってるんだったら言えば良いじゃないですか?なんでいつもあんま言わないんですか?」って言われてたから。
正直言うと、僕は、波風を立てるのが好きではない。人がイライラしているのとかも苦手だ。

でも、言わないで後で後悔するのはもっと嫌いだ。

彼のフィードバックを受け入れることは、僕の中に彼が残ることだと思う。


というわけで、親友が去って辛いという気持ちを抱えながら、日々アクティブに過ごしている。


最後に、「別れ」について、二ヶ月くらい前に読んだ、瀬戸内寂聴さんのエッセイにこんな文章があった。今の自分の気持ちをこれ以上ない位ぴたりと表現してくれているので、抜粋してこの文章を終わる。

「自分が数々の出逢いによって得た想い出の豊富さを思いかえす時、出逢いの相手の中に、自分がどういう形でつなぎとめられているかを自然に考えずにはいられない。
(中略)
数々の出逢いに怖れず直面し、出逢いの重さと神秘に勇気を持って当たった人間には、少なくともその相手にだけは自分の生きていたしるしを刻みつけることが出来たといえよう。」

「私の望むと望まないにかかわらず、人を愛した以上は必ず別れは訪れるものだ。人は別れるために出逢うのであり、出逢うために生きるのである。私が生を終わらないかぎり、私はまだこれからも人に出逢うだろう。そして性懲りもなく、別れをくりかえしていくのだろう。」

 

ひとりでも生きられる (集英社文庫)
 


(別れについて追記:過去の自分のブログより抜粋。今読むと恥ずかしいが感慨深いものがある)

昔好きだった詩にこういうものがある。
「この杯を受けてくれ、どうぞなみなみ注がしてくれ、花に嵐のたとえも在るぞ、さよならだけが人生だ」(井伏鱒二


アンサーソングとして、こんなものもある。

「さよならだけが人生ならば、またくる春はなんだろう、さよならだけが人生ならば、めぐりあう日は何だろう、さよならだけが人生ならば、人生なんていりません」(寺山修司


僕の今までのスタンスは前者だった。どうせ人生において人は一人で生まれ一人で死んで行く。そんな中でさよならを前提として、人と付き合い、自分と付き合い、人生とつき合って行けば良いやという厭世観にも似た感情があった。

今、ふと思い出して思うことは、自分の”あり方”の変化によって、今の自分のスタンスは後者になった。
さよならだけが人生じゃない。この春を、この出会いを、この一瞬を、祝う。ただそれだけだ。一瞬の結びつきが永遠の結びつきになることを今の僕は知っている。いま、人が決めたこの時間の中にある生が終わっても、終わらないものがある。

雨が降っている、ここから僕の人生はリスタートだ。人生は終わらない。人生はさよならだけじゃない。人生は出会いに満ちあふれている。人生は愛と力だ。そして人も。 

 

 


長くなったので他のことは次回以降かく。

2.インターン生のメンターになって

3.将来について

4.女性関係

5.インドのあるスポーツサークルに参加しての雑感